サポーターはなぜやさしいのか

サッカークラブのサポーターはなぜ心やさしいのか。それは、彼ら自身がつねに敗者であるからです。どんなに強く願っても、祈っても、想いが通じることは稀であるということを彼らは知っているのです。

 

Jリーグであれば、勝者は18クラブのうちわずか1クラブ。1部に残りたいと、スタジアムで声をあげつづけても、3つのクラブのサポーターは想い通じず降格の憂き目にあってしまいます。これが毎年つづく。

 

サッカークラブのサポーターであるということは、敗者でありつづけるということなのです。

愛が勝つなんて幻想

だから、彼らは敗者に対して心やさしくいられるのです。「最後に愛は勝つ」なんてことは幻想だと知っているのだから、挫けたものに「まだ頑張れるよ」なんてことは言わないのです。敗れ、挫け、散っていく経験をもって、明日の太陽を見るためには耐えなければならないことを知っているのです。

サッカーの応援なんて、所詮他力依存。願うもなにも、選手が頑張るのを見ているだけじゃないかと思う方もいるでしょう。それはまったくその通りです。
たしかにサポーターは、スタジアムで声援を送る以外に大したことはできません。でも、クラブの浮沈は自分の痛みであり、稀に喜びであるのです。なぜなら、クラブはサポーターにとって肉親なのですから。

繰り返す悲嘆と反省

サポーターがクラブの成績に傷つき、挫ける様子は、親が子の(あるいは子が親の)成功を祈る行為に似ています。たとえば大学受験。子供が志望校の受験に失敗すれば、親御さんは大層がっかりするでしょう。自分のサポートが足りなかったのかと悩むかもしれません。でも受験に挑むのも、力が足りなかったのも、それは子供の力です。

特殊なケース、一年中喧噪をまき散らして勉強の環境整備ができなかったなど、を除けば親にできたことなどたかが知れています。それでも親は自らを省みては、悔やみ嘆くことでしょう。

 

サポーターも同じです。批判を受けるまでもなく、自らにできることが些細なものであることは知っています。それでもクラブの結果に嘆き、悲しみ、悔やみ、自分の想いが足りなかったのではないかと反省するのです。

 

彼らは一年中、この悲嘆と反省の儀式を繰り返します。だからこそ、どこかで何かに敗れそうで、絶望している人がいれば、サポーターは彼らに対してやさしくなれるのです。人生は敗北の連続なのを知っているのですから。

挫けつづけるのがサポーター

きっとこれはサッカーに限らないことでしょう。野球のファンも、弱いチームであれば年間に100近い敗北を味わうこともあります。もう、毎日が絶望。

ひょっとしたら毎年10月には、シーズン終了に胸をなで下ろしているかもしれません。それでも、応援を止めないのは、球団とともに人生を歩むことが、たとえ苦難と悲嘆に満ちているとしても、充実した生涯へのエッセンスであることを知っているからです。

 

スポーツは勝ち負けのあるものです。勝つ者があれば、必ず負ける者もある。大会ならば、負ける者がほとんどです。

 

想っても、願っても、祈っても、それが叶うのは、ごくわずか。願いが叶わないまま、選手生命を終えるものもいれば、もしかしたら生きているうちに歓喜の美酒を味わえない人もいるでしょう。それがスポーツです。それでも前を向き、勝者を讃え、次の機会にまた祈りを捧げるのがスポーツです。サポーター自身が、挫けつづける人種なのです。

This is football

僕はストイコビッチの選手生活から、多くのことを感じ取りました。彼は不当な障壁にぶつかり、思わぬ困難をつきつけられ、願いが叶わぬ場面に出会いつづけるフットボーラー生活を送りましたが、そのたびに「This is football」とつぶやき、軽やかに次のステップに駆け上がっていきました。


人生って、きっとこんなものなんだろうと僕は思います。つらいこと、きついこと、信じられないこと、悲しいことが次々に僕を襲いますが、「これが人生」なんです。


何かあれば、悔しさや絶望や悲しみに暮れるだろうけれど、それでもいつだって前を向いて歩きつづけなくちゃいけません。なぜなら、僕はフットボールライフで、それを学んでいるのですから。