想像力ー傲慢と配慮

想像力がないことは悪だ


と、ずっと考えていました。今も結構、そう考えています。
たとえばイジメだって、やられている側に立って想像することができれば、悪行にブレーキがかかる子も増えるでしょう。仕事だって、ちょっと未来への想像力が今の行動力を呼び起こす源泉になる。


先日のナビスコ杯表彰式における川崎フロンターレのマナー違反も、関係者(観客、スポンサー、来賓、対戦相手)への想像力があれば、避けられたことでしょう。(その想像力を養うのはクラブのお仕事、余談ですが)

でも、想像力がありすぎると、それはそれで厄介かななんてことも思うわけです。

 

・今、ここで電話をかけたら迷惑なんじゃないか(だから後にしておこう)
・食事に誘ったりしたら、断れなくて困るんじゃないか(だからやめておこう)
・僕が声をかけたら、他の人と話せなくなってイヤなんじゃないか(だから話しかけずにおこう)


これらはみんな、僕がしょっちゅう思ってること。そして実際にカッコ内の行動を取っているわけです。
こういう想像力って、きっと他者への配慮という仮面をかぶった、自己愛(というか甘やかし)なんでしょう。

この壁を越えなくちゃ、満足できる仕事も人生も待っていないのに、自分を甘やかす想像が次から次へと生まれてきちゃう。こうなると、想像力も困りものです。

想像力を減衰することは傲慢になることなのか。傲慢と配慮の境目はどこにあるのか。
その壁を見つけることができれば、僕ももう少し先へ行ける気がするのです。