括ることは理解を助けると同時に、思考を妨げることにもなりはしないでしょうか。
「女はこうで、男はああだ」とか
「野球好きは○○で、サッカー好きは××で」とか
「日本人は・・・」とか
「サラリーマンは・・・」とか。
たとえを挙げればキリがないけれど、
どれも分かりやすくなっているようで、
かえって真実から遠ざかっているんじゃないかと、
当たり前のことですが、思うわけです。
新橋のインタビュー
テレビのニュースショーを見ていて、
新橋のサラリーマンにインタビューするわけです。
赤ら顔のおじちゃんが「政治家ばっかり儲けやがってチクショーッ」
なんて語る姿を流しては、物知り顔のキャスターが
「サラリーマンにも不満は溜まっているようですね」って。
そりゃ、その人に不満が溜まっているんであって、
日本中のサラリーマンが赤ら顔でチクショーって言ってるわけじゃないでしょう。
みんな頭では、そんなこと分かっているとは思うんだけど、
ついつい、それがサラリーマンの感じ方なんだと理解しちゃうんですね。
そう思わない人はいないのか、いるとすればどういう状況なのか、
思わない人を増やすためにはどうすればいいのか、
そういうことを思考するのを止めちゃうですね。
なぜならこのテーマについては、
「サラリーマンは不満に感じてる」って理解しちゃってるから。
世界は複雑だ
でも、世界は広いし、いろんな人がいるし、
僕らが思ってるほどシンプルじゃないし。
きっとそんな安易な括りに縛られるほど、単純じゃないと思うわけです。
みんな、そりゃそうだ。当たり前じゃないか、と思うでしょうけれど、
冷静になって日々の会話やテレビや新聞、雑誌を見てみると、想像以上に
「理解させるための安易な括り」があふれているものです。
すぐには無理だろうけど、みんなで意識して、
そういう思考を止める括りをなくしていくわけにはいかないのかな。
安易に括らなくなれば、そりゃー世界は複雑になるし、分かりづらくなるし、
話はまとまらなくなるしで大変ですけど、
分かった気になってバカになるよりは、よっぽど良いと思うんです。
ほんと、世界は複雑で、人生ってしんどい。
そんなところからちょっとずつ進んでいけばいいじゃないっすか、ね。
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