2010年

12月

23日

SNSでつながりますか?

twitterやmixi、tumblrでもInstagramも...。なんだっていいんだけど、僕らはwebサービスを使うときに当たり前のようにIDを取得します、特にこの数年。直接、会話ややりとりをする際もIDやスクリーン名が基本で、僕も「のりさん」と呼ばれることに最近、慣れてきました(が、本来、それは父親の名前だw)。

「のりさん」なり「のりじゅにあ」なりと呼んでくれる人が増えてきました。人に認識されるということは、恥ずかしげもなく言ってしまえば、本当にうれしいことです。でも、「のりさん」と呼ばれているうちは、本当に僕を認識してくれているのか、僕が受け入れられているのか不安だったりもします。

 

SNSでのスクリーン名はあくまでも別人格(あるいは人格のほんの一部分)だという話ではありません。生活情報を垂れ流している僕にとって、それはあまり気にならないし、twitterにいるのは僕自身だと断言できます。そうではなくて、スクリーン名というものがSNSというサービスに依存したものであるということに、ザラザラとした印象をおぼえるのです。

 

たとえばtwitterで僕とつながっている方がいるとします。日頃から仲良くしてくれて、実際に飲みに行くことも幾たびか。それぞれの趣味も知ってるし、仕事も知っているし、何だったら好みの異性だって恋愛事情だって知ってるかもしれない。でも互いに本名も電話番号も住所も知らないわけです。だって、知る必要を感じないんですから。

 

名前はtwitter上で呼び合う名前があるし、連絡もtwitter上でできる。実際に会って話をしてるし、互いにいろんなことを知っているから近所の人なんかよりもよっぽど信頼だってできます。名前すら知らないのに。

 

彼(彼女)にとっては、僕は「のりじゅにあ」であって、「安藤 崇」ではないんですね。だから、僕がtwitterで@NoriJrというアカウントを消滅させてしまえば、関係はそこでプツリと切れてしまいます。マルチSNSで交流していても、アカウントを消す手間がちょっと大変なだけで同じですよね。そして、相手が消してしまえば消された側にはどうしようもありません。

 

一方で僕を「安藤 崇」としてつきあっている人はどうでしょう。一度、関係が途切れても、共有の友人や過去の連絡履歴から交流が復活することもあるでしょう。e-mailが久々に届いて仕事が発生したり、年賀状で細々とつながっていたり、故郷の友人と再会したことから交流が拡大したり、そんなことがあっても不思議ではありません。

 

 

まあ一朝一夕にそんなコミュニケーションは築けるわけはなく、地道に地道に積み重ねていくしかないわけですよね。僕はskypeは使っていないけど、skypeのシステムがダウンしただけですごく不安を感じた人もいるみたいですし。「のりさん」から「安藤 崇」へ移行すればそれでいいってなものでもないんでしょうけれど(facebookではそもそも実名ですし)、「twitterにいるパンダアイコンのネガティブな人」からもうちょっと先に進めるようになれたらいいな。そんなつながりが少しでも生まれればいいなと。

 

考えたことでどうなるものでもないけど、今年最後の祝日にそんなことを考えていました。

 

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