国民の映画を観てきた

 

ここのところネットには、いやネットだけではなくテレビにも新聞にも雑誌にも正しさがあふれかえっている。食料品の買い占めはもってのほか、節電に励まなければいけない...。同じ<災害後の日本人像>を語っても、作家が今回の震災を「希望」だと言えば賞賛され、知事が「天罰」と言えば罵られる。

 

 

 

自然とできあがっていく得体のしれない正しさは僕らから思考を奪い、想像力を蝕み、独善的な判断を増幅していく。もしかしたら、頻繁に買い物には出られない人の買い物かもしれない。もしかしたら過度な節電で収入を失った非正規雇用者がいるかもしれない。でも「買い占め」は悪だし「節電」は善だ。正しさの恐怖が、今この国を覆っている気がする。

 

「国民の映画」は1941年、ナチス政権下のドイツを描いた作品だ。宣伝大臣として映画芸術を統制していたゲッベルスを中心に、信念と欲と忠誠の間で12人の映画人たちがさまざまに揺り動かされていく。休憩時間を含め3時間。登場人物がそれぞれの正しさに突き進み、翻弄され、追い込まれていく。

 

今の僕らは正しさに追い込まれてはいないか。誰かを追い込んではいないか。この作品は3月6日にプレビュー初日を迎えているので、震災が重なったのは偶然だ。しかしそこに描かれている様子は驚くほど今の東京によく似ていたと僕は感じた。

別にここにゲッベルスがいるというわけではないし、誰かが大衆を扇動しているとも思わない。僕だって無駄な買い物はしないようにしているし、できる限り暖房にも照明にもスイッチはいれていない。twitterで想像上の買い占め人をからかい、セ・リーグに文句をつけ、大した知識もないのに東京の放射性物質汚染は大丈夫だと高をくくる。

みんながどういうわけかそこに横たわっている正しさを正義だと思い、誰かが誰かの行動を規定する。こいつなら叩いても大丈夫だというコンセンサスができあがれば、徹底的に攻撃される。なんで攻撃されるかって。それは奴らが正義に従っていないからだ。

 

思考や想像力を失い、モノサシだけを手にした人間はこわい。それは70年前も今も変わっていないように思う。